Les Nymphéas
2018年7月6日(金) - 8月5日(日) Jul.6 - Aug.5
EUKARYOTE
http://eukaryote.jp/exhibition/keisuke_katsuki_solo_ex/

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撮影:宇佐​ 巴史

Les Nymphéas

 「睡蓮の池」という言葉を聞けば誰もが思い浮かべるであろうイメージはおそらくモネの描いた絵画ではなかろうか。日本では特別、昨今の美術館で開催される展覧会で必ずと言ってよいほど目にする絵画の一つであろう。
 今更言うまでも無かろうが、モネの描き出す風景は不明瞭で色彩豊かな、現実とはかけ離れた風景である。そして私たちが蓮の花が咲いた午後の池を公園で見かけたとするならば、モネの見方で、あるいはモネが描いたように見ることができる。これは19世紀末に辿り着いた風景画の到達点でもあり、新たな視覚の獲得と言っていい。

 そして私たちが日常、目にしているのは数多のモニターの画面である。虚像が平滑な画面の上に漂い、滑りながら切り替わる。この虚像のあまりに空虚な振る舞いは、時に私たちに現実の風景を忘れさせ、時に生活の助けとなる。この再現性の高いイメージを量産し続ける画面は現代における新たな視覚文化である。

 この一見かけ離れた現代のツールとモネの睡蓮の絵画群にはある視覚的な共通性がある。
私たちの見ているモニター画面は赤、緑、青の極小の点によって表示されており、網膜上で色彩が混ざりあい、色彩と形態を認識することができる。そしてモネら印象派の絵画は筆触分割によって異なる色彩を並置し、同様に色彩をコントロールしてきた。
モネの睡蓮には自然風景に満ちた光、水面の反射像、水中の透過像が統合されている。そしてモニターの発する光は光そのものでもありながら、水面のように現実にそこにあるはずのない虚像を映し出す。

 また、モネの睡蓮はその描かれる対象とともに絵画という媒体に対しても自覚的な態度を持っていたように思う。モネの睡蓮は荒々しい筆触により絵具の物質性が見える瞬間がある。それは物としての絵画が見える瞬間でもあり、絵画の外にある光を意識することでもある。 
そしてそれは本来的にはモネの描いた風景とは関係のないものの筈だが、いまや実体を持たないイメージばかりを目にしている私たちは物の表面に自覚的にならざるを得ないだろう。モニターの画面が極めて平滑なのは像の認識を阻害しないためであり、ガラスの割れたスマートフォンで画面の向こう側を見ることが困難になるように、絵画表面を見ようとすればたちまち像は消失するのだ。
絵画を見るときに時間をかけて見ることはままあるだろうが、同様に、手のひらに収まり巡るめく切り替わる像もまた時間をかけて見る必要があるだろうか。そして、そのように表面を見ることが。


はたしてモネは絵を描くために風景を見たのだろうか。それとも風景を見るために絵を描いたのだろうか。
今や肉眼で見ることのできない極小な光の点であるピクセルを時間をかけて表面をなぞるように物に置き換えてゆく。かつてそこにあった光を、そしていま目の前にあるものを“私の眼“で見るために。

香月恵介

 - Les Nymphéas 展覧会記録冊子

EUKARYOTEにて販売中

¥ 300 (tax in) - 

- 収録テキスト

gnck 「香月恵介の”労働”と”赤の光"」

- 撮影:宇佐巴史

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